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2007年5月 アーカイブ

2007年5月 1日

ア・プリオリ

ア・プリオリ の意味を理解するのは困難なのだそうだ。

ア・プリオリは a priori と書き、ラテン語で “より先のものから” と云う意味らしい。
対義語ア・ポステリオリは a posteriori で “より後のものから” の意。

このことから、前者を“先天的”、後者を“後天的”と訳す・・・・と誤解のモトになる。

認識論で“ア・プリオリな知識”と云う言い回しが出てくる。ここで上を適用すると“先天的知識”となる。
“先天的知識”ならば“生得的・本能的知識”と思ってしまうが、認識論ではそんなことを云いたいワケではない。


例えば命題「すべての独身男子は未婚である」は “ア・プリオリな知識” なのである。
当然、生まれながらにこんなことを知っているワケがないので、生得的・本能的知識ではない。つまり “先天的” ではないのだ。


この概念を理解するために “経験” と云うキーワードを使って補足される。
“ア・ポステリオリな知識” は “経験によって得た知識”、“ア・プリオリな知識” は “経験によらない知識” である。

んじゃやっぱり、“先天的”“後天的” の訳でいいように思うが、そうではない。

「すべての独身男子」を調べて「彼らは未婚である」と云うふうに、この知識を獲得したのではない。
言い換えると、経験を通して得た知識ではないのだ。つまり “ア・ポステリオリな知識” ではない。

でも、概念「未婚」は辞書なり誰かに聞いて得た知識、つまりそれなりの経験を通して獲得した知識じゃないの?と問われれば、主観がどうのこうのって、ややこしい説明に突入してしまう。

まず、「ア・ポステリオリか?」を考え、ア・ポステリオリでなければ「ア・プリオリだ」と判断した方がいいのかもしれない。

2007年5月 2日

数学の証明

前エントリのように、認識論の言葉に頼って話しを続けると混乱しやすい。ここで、わりかしキッチリしてる数学に助けてもらう。

数学には証明と呼ばれる手続きがある。
これは、演繹的に議論を展開し命題の真偽を判定する方法である。
“演繹-Deduction-”とは、ある前提を始点に矛盾なく理屈をこね、結論に至ることである。

例を挙げると
 直角三角形において以下が常に成り立つ
 a2 + b2 = c2
と云う命題は正しいか。

これを演繹的に展開すると・・・
一辺が (a + b) である正方形に、内接する一辺が c の正方形を考える。
外の正方形の面積は (a + b)2、内の正方形の面積は c2 である。
外の正方形と内の正方形との間にある三角形 abc の面積は ab/2 であり、同じ三角形が 4 つあるので、合計 2ab である。
外の正方形と、内の正方形+ 4 つの三角形 との面積は同じハズなので、
(a + b)2 = c2 + 2ab
が成り立つ。左辺を展開すると
a2 + 2ab + b2 = c2 + 2ab
両辺から 2ab を消すと
a2 + b2 = c2
となり、上の命題は真であることが証明された。

以上が証明(演繹的な推論)であるが、推論方法にはもう1つある。

“帰納-Induction-”である(実はもう一つ Abduction があるが割愛)。
これは、幾つかの事例から共通する規則を見つけ一般化し、結論に至ることである。
上の命題を例にすると・・・
3cm、4cm の垂直線を引き、斜めに引いた線を計ってみると 5 cm だった。上の命題は成り立っている。
5cm、12cm では 13 cm だった。上の命題は成り立っている。
8cm、15cm では 17 cm だった。上の命題は成り立っている。
7cm、24cm では 25 cm だった。上の命題は成り立っている。
20cm、21cm では 29 cm だった。上の命題は成り立っている。
どうも、これら以外でも a2 + b2 = c2 は成り立ちそうだ。
なので上の命題は真だと思われる。
・・・となる。

演繹は帰納とは異なり測定はしていない。測定と云う経験がない。理屈だけである。一方、帰納は経験によって確かめている。

前回のエントリに当てはめると、
 演繹 -> 経験によらない -> ア・プリオリ
 帰納 -> 経験による   -> ア・ポステリオリ
と換言できる。

また、帰納の例ではひょっとしたらマダ描いていない直角三角形で成り立たない場合があるかも知れない。そんな不安が残る。が、演繹の方はそんな心配はない。経験による推測ではないので、経験によって反証はされない。

いかなる経験によっても反証されない」。このことも“ア・プリオリ”を理解する上で重要みたいだ。

ピュタゴラス

# ゴールデンウイーク特大号につき 1 日に 2 度更新。って週刊誌じゃないんだから・・・

前エントリで、数学的証明は演繹、即ちア・プリオリ、即ち「いかなる経験によっても反証されない」と云うことがわかった。

「いかなる経験によっても反証されない」とは「いかなる経験をつんだ人からも反証されない」と言い換えることができる。
数学的証明は理屈に矛盾がない限り、上司の顔色を伺わなくても、社長に決裁をもとめなくてもいい。王や皇帝、神官からも反証されない。数学的証明はいかなる人間をも超越したモノでパワフルである。といえる。

で、この「いかなる人間をも超越したモノ」から「神のモノ」と考えを進めてしまった人がいる。
それがかの有名なピュタゴラスである。

いまどき、こんなこと言ってたらちょっと距離を置きたくなるけど、当時の常識からすると人間以上=神だと思うのは当然だったんでしょうね。ある程度理解できます。ちうか、しないといけない。現代の常識で過去を批判するのは文化レベルの余程低い人たち、前近代的と云うかナンと云うか、ってことになるので。

ということでピュタゴラスは教団を設立する。

とココまではよかったが、更に彼は「神のモノなので美しいはず」と云う信念も付け加えてしまう。

「神のモノ=エレガント」と云う信念に無理があったのか、この信念から悲劇が起こる。
彼の美意識によると無理数はエレガントでなく、存在を許せなかったらしい。
無理数とはπ(3.14159...)や√2(1.41421...)のように規則性がなく延々と続く数のことである。
で、この無理数の存在を教団外に漏らした仲間がいた。彼はピュタゴラスの怒りをかい、船から突き落とされ海で溺死させられてしまうのである。

ちょっと横道に逸れたが、話しをモトにもどすと・・・
ア・プリオリ”は「いかなる人からも反証されない」モノと理解できそうだ。

2007年5月 7日

パングロス博士

パングロス博士。この人はヴォルテールの小説「カンディート」に登場する。
ライプニッツの楽天主義を(ヴォルテールが誤解に基づいて皮肉るために)擬人化したキャラクタである。

博士の仕事は城館の神託で形而上学的神学的宇宙論的暗愚学を教えている。
博士は
「すべては最善の状態にある」
「事態が現にあるより以外ではありえないということは既に証明されている」
「すべてのものは何かの目的があって作られているのだから、必然的に最善の目的のためにある」
を信条に全てのことを証明してしまう。例えば
「鼻は眼鏡をかけるために作られている。それゆえ、われわれには眼鏡がある」
「脚は明らかになにかを穿く目的で作り出された。それゆえ、われわれには半ズボンがある」
と云う風に。

小説の中で体験する様々な災難にあっても尚「すべては最善の状態にある」と主張する。
乞食であり梅毒を患っていた自分を救ってれた恩人が、船から投げ出され溺死していく際にも「リスボン沖の停泊地はあの再洗礼派の男を溺死させるために特別につくられたのだ」と「アプリオリに証明」してみせるのである。

この場合の「ア・プリオリ」とはなんだろう?
植田祐次訳では「先験的」にルビ「アプリオリ」が振られていた。
なるほど語源「より先のものから」にフィットする。
また文脈から証明方法が「演繹的」だし、それにどんな災難(経験)にも左右されないことも含意している。
# と云うことで前3回のエントリはこの言葉を理解するための下準備だったのであります。

この後、パングロス先生、宗教裁判官から 原罪 や 自由意志 の存在を問われても自説を展開し続け、絞死刑になるが・・・。

# このシリーズ、次回で遂に完結か!?

2007年5月 9日

パングロス・パラダイム

ダーウィンの進化論(説?)は、自然選択とか自然淘汰などのキーワードが用いられる。
ものすごく端折って説明すると・・・
生物は、突然変異体を含めて多種多様であり、ある部分は遺伝し、生存確率や繁殖力に影響を与える。このことである特定の集団が増える。また、環境の収容力を超えた場合、生存競争が起こり、生き残ったり滅んだりする。
これが、自然選択、自然淘汰である(だと思う)。
つまり、生物自身の変化と環境とがマッチして、生き残ったモノたちが現在の生物なのだと考えられる。

と、ここまでの議論では実は方向性は持っていない。どういう方向性かと云うと「優劣」や「善悪」である。
単に「生き残った」と云ってるだけで、「優秀だから生き残った」とか「劣っているから滅んだ」などとは云っていない。

だが「適者生存」という概念を認めると「現存する生物は累積的な適者であるため最適者である」と言え、なにか方向性を持ってしまうことになる(正確には、そのような誤解を生む可能性がある)。
この考えでいくと、現存する生物の一員であるヒトも「最適な状態」にあるといえてしまう。


さてさて、エドワード・オズボーン・ウィルソンは著書「社会生物学」で進化論を人間社会に適用させるようなことを書いてしまったらしい。
このことで「ヒトは最適な状態」->「改革の必要なし」->「超コンサバの擁護」と誤解され、「ウィルソン許しがたし」と攻撃を受け始める。で、誰が攻撃してるかと云うと、これまた進化論者のスティーヴン・ジェイ・グールドたちだったりする。彼らはアレルギー的に進化に方向性を持たせることを毛嫌いしていた。
グールドたちは「すべては最善な状態にあるなんて、パングロス博士みたいで馬鹿げている」と皮肉る。パングロス博士とは前エントリで紹介したヴォルテールの小説「カンディート」に登場するキャラクタである。

この批判を起源にコレ以降、行き過ぎた適応主義は「パングロス・パラダイム」とか「パングロス氏的な楽天主義」などと呼ばれることになる。

ほれ、なんでもかんでも「人間にこういう能力があるってことは進化論から考えても意味があるのだよ」って主張する人がおるでしょ。あれね。

ただ、昨今はウィルソンの誤解は解け始めているそうだ。もちろん当のウィルソンは「超コンサバの擁護」などをしたかったワケではない。曲解してその様な意味を持たせたグールドたちの方が政治的すぎるとして、逆に批判されているらしい。


あぁ、ちゃんと「社会生物学論争史」も読まないとなぁ。また宿題が増えたや。

# 次回、本当にこのシリーズ完結(か?)

2007年5月15日

クワインの重箱の隅(前編)

# 前編って・・・終わらないなぁ

ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインは 20 世紀を代表する哲学者で多くの仕事をした。その中に「認識論の自然化」構想と云うのがある。今回もメチャメチャ端折って説明すると、「認識論の自然化」とは認識論を自然科学に取り込んでしまうことである。

何を言ってるのかさっぱり分からない。意味も意義もわからない。
ちゅうことで、ちょっと噛み砕くと・・・

まず「認識論とは」から。
認識論とは「知識(知ること)は可能か」を問う哲学である。
認識論は万学の基礎をなす第一哲学の範疇であり、この基礎をしっかり構築した後に他の学問があるべきなのである。
と哲学者は考えた。特にデカルトがこれを決定的にしてしまう。

「でもさぁ知ることくらいあたりまえに出来るんちゃうん?」
そう思うでしょ。でもこれを説明するのはとても難しい。
錯覚で思い違いをすることは幾らでもあるし「実は何も知りえないんじゃないの?」と云われればそんな気にもなる。これが懐疑論である。懐疑論の否定をしないと認識論は確立できない。とデカルトは考えた。

そこでデカルト、まずは懐疑論者よろしく、さまざまなモノ(の存在)を疑った。
全てを否定した結果、残ったのは「考える自分」だった。自分がどんな形状をしてようが「思う自分」が存在するのは否定できない。この「思う自分」を始点にこれまでの疑いを遡って他の存在を肯定していこうとする。
錯覚があるため感覚に頼って知るのはヤメタ方がよさそうである。しかしながら、明晰判明に知れるものは正しいと考えられる。だって「思う自分」を思えるのは明らかだし、そう判断できる能力も明らかに自分にあるから。明晰判明な知覚を使えば、外界を知ることは可能なのである。明晰判明なモノと云えばア・プリオリな知識である数学だ。

「でもデカルトさん、外界とア・プリオリな知識とのリンクは可能なんでしょうか?そのあたりの考察がスルーしてるように思いますが・・・」
「それは大丈夫。明晰判明に知覚できる我々も、外界も、誠実な神によって作られたんだから。」

がーん。ここに来てなんと楽観的な・・・・パングロス博士と変わらんやんか

# クワインについては次回・・・かな?

2007年5月24日

クワインの重箱の隅(中編)

ところで前エントリで「明晰判明なモノと云えばア・プリオリな知識である数学だ」と書いたが本当にそうだろうか?

三段論法などの論理学はどんな場合でも成り立つし経験によって反証されない。論理学はア・プリオリだと言えそうだ。
と云うことで、すべての数学を論理学に還元できれば、今後は「数学はア・プリオリな知識だ」と堂々と主張できることになる。この再構築運動は 19 世紀後半~20 世紀前半に興った(と云うよりこのことで論理学も再構築されたらしい)。

で、この試みは成功したのか?結論を書くとパーフェクトにはいかなかった。集合論がどうしても収まらないらしい。
が、ポジティブに捉えると「数学は論理学と集合論とでできている」と言っていい。

と、この試みにならって物理学も再構築に動き出した。この運動は論理実証主義者(ウィーン学団)たちによって行われた。
彼らはまず、検証できるモノ/できないモノを区別し、後者を「擬似命題」として取扱わないことにした。と云うのも 20 世紀前半は相対論や量子力学が台頭して、胡散臭いモノとそうでないモノの線引きが曖昧になっていた。その線引きを行うために神などを論じる形而上学や似非科学を切り離したかったのである。

彼ら論理実証主義者は、数学(論理学&集合論)、文脈的定義と云った道具を使って、この仕事を遂行しようとしたのだ。
はたして、彼らの試みは成功したのだろうか?

実は“検証可能なモノ”にこだわるとゴールできないのである。

まず“論理学&集合論”へのツッコミ。
そもそも数学界でも「集合論はア・プリオリな論理学に収まらなかった」と言ってるのに・・・と云う指摘である。
検証できた事実を集め、“事実”の集合を作ったとしても、その集合が正しいとは云えない。以前のエントリで書いたとおりこれは帰納であり演繹ではない。つまりア・プリオリでないのだ。

次、“文脈的定義”へのツッコミ。
そもそも物理学では“エネルギー”や“エントロピー”など直接検証できない概念を使ってる。
そこで論理実証主義者たちは、それらの概念を検証可能な文章に翻訳しようとしたのである。これが“文脈的定義”である。
だが、その翻訳も上手くいかない。論理実証主義のメインキャラ、カルナップも諦めてしまう。

それに上手くいったとしても、概念と検証とのセットなんて作れないんじゃないか?検証と云っても実験では検証対象以外にも仮説が複数含まれてる可能性があるんだし、どの概念の検証してるんだか分からなくなるでしょ・・・とも指摘されてしまうのである。

以上のようなツッコミを論理実証主義に入れまくったのが、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインである。
# やっとクワインに戻ってきた

2007年5月28日

クワインの重箱の隅(後編)

そんなこんなで、認識論から形而上学を分離した論理実証主義(ウィーン学団)。
さらに、論理実証主義(ウィーン学団)を批判したクワイン。

こうなると、認識論がすっくり否定されてしまったように思う・・・がそうではない。

クワインは考えた。“万学の基礎をなす第一哲学たる認識論”なんて考えを捨てれば、認識論が生き残ることはできる、と。
認識を哲学的に答えるなんてソモソモ無理な話しだったのだ。むしろ注目すべきは“感覚経験”から“理論語”へのプロセスじゃないか。言い換えると、どうやってヒトが、感覚から“エネルギ”や“エントロピ”などの概念を生み出すことができたのか?これを科学した方がいいのではないか?つまり、認識するヒトを自然科学の対象として、その認識プロセスを追うのだ。

これが「認識論の自然化」である。手段としては心理学が候補に挙がる。

どうってことない発想の転換に思えるが、これは保守的な哲学者にとっては受け入れがたいものなのである。
“万学の基礎をなす第一哲学”とは、哲学は他の学問を基礎付ける立場にあって、基礎付けされる立場にないと云う意味だからだ。
「哲学も他の学問と同格に基礎付けあいしましょう」なんて言われるとムッとしてしまうのである。

ところで、「認識プロセスを追う」ことは、感覚経験と概念(理論語)とはリンクできることを前提している。

さてさてクワインさん、議論なしにこんな前提があっていいんでしょうか?
「それは大丈夫。仮に感覚経験が間違った概念を形成するなら、我々は生き残れなかった(淘汰されていた)ハズですからね」

おやおや、ここに来てクワインさんもパングロス博士になってしまいましたね。やっちまったな。

# このシリーズ、ようやく完。
# 最近読んだ数冊の本からの自分用のメモです。ある筋に沿って自分なりにまとめました。
# なので、筋から外れたり、説明が煩雑になるトピックは切り捨てました。
# だいたい、認識論の話なのに、基礎付け主義や内在論の説明をすっ飛ばすのはかなり
# 乱暴やし。
# 書いていると自分の不理解ぶりがよくわかりますね。何度も本を読み返しましたよ。
# またあらためてこのメモを読み返すと、赤面するんでしょうが、恥をさらしておきます。

2007年5月30日

今朝の英会話

英会話はここのところ軽い話題ばかり。
教材にそって架空の生物について。

今朝担当の英国人はナゼか河童にフォーカスをあてて来る。日本人は河童を信じてるのか?と。

私:子供の頃は、釣りに行く際、祖母からガタロ(河童)に気をつけろとよく言われた。
英:悪い子が連れて行かれるのか?
私:良い子にしててもさらわれる。とにかく子供が好きなの。あとキュウリと相撲も好き。理由はしらん。
英:キュウリに弱いんだな。
私:いや、好きなだけ。あとシリコダマも好き。抜かれるから気をつけて。
英:何、それ?
私:体の一部。お尻の中にある玉状のもの。
英:あぁ、ボールか!w
私:それとは違う。そのボールは女の子にはないけど。シリコダマは女の子にもある。ただ科学的にそんなパーツはない。下半身のレントゲン見たけどシリコダマはなかった。
英:よくわからんねぇ。
私:私もよくわからん。河童は中国産やからね。あ、そうそう、英国人なら『西遊記』を知ってるでしょ?昔の TV 番組。
英:何それ?
私:ほれ、坊さんが中国からインドに行くヤツ。
英:???
私:猿のお化けと豚のお化けと・・・
英:あ!モンキーマジック!70 年代の番組やね。
私:そう、それ!猿と豚ともう一匹おったでしょ、あれ河童ね。
英:あぁwwwあれが河童か!初めて知ったwwwwモンキーマジックは中国の話しなの?
私:そう。インドまで行く中国の古い話し。番組は日本で作ったの。
英:モンキーマジックにそんな設定があったのかwww初めて知ったwww

このように我々の年代以上なら英国人もマチャアキの『西遊記』は知っています。
英国では西遊記の DVD Box 発売中。
ところで、英国でもリメイク(香取慎吾版)が気になってたみたい。
この BBC ニュースによると・・・がっかりしてるね・・・同感。

2007年5月31日

おわび

コメント欄に入力できない or 入力したが表示されない などの不具合があったようです。
(ひょっとすると勝手に消されてしまったコメントがあったかも・・・すみません)
今後は入力できると思います。ただ、「管理者の承認のため保留されています」などと高慢ちきなメッセージが出るかもしれませんが、許してください。そのうちなんとかしますので。

それでもやっぱり、コメントが書けないようなことがあれば、メール か mixi のメッセージで教えてもらえないでしょうか。お手数ですがお願いいたします。

感動したのかね

先日、日本経済新聞の夕刊に宮本亜門、蜷川幸雄、失念したがもう一人の対談が載っていた。
要約しまくると「感動したがる客が多くてウンザリしている」と云った内容(うろ覚え)。
鳴り止まない拍手、何度もカーテンコール、スタンディングオベーション・・・ホントにそこまで感動したのか?
本当に感動し感情を抑えられずそうなっちゃったのならいいが、無理に感動をアピールしてもらわなくても結構だ。カーテンコールは通常 1 度だし、スタンディングオベーションしてもらっても演者は左程嬉しくない。
そんなことより、他の客にもスタンディングオベーションを暗に強要するような空気がイヤだし、安易な感動で演者・スタッフが育たない方が心配。と云うのも、昔は客席からヤジが飛ぶのは当り前だったし、客は気に入らないと途中で出て行った。これで自分達は鍛えられたのだが・・・と。

そういえば、最新作にからんで北野武も似たようなことを言っている。この人の場合、見る側と作り手側の両方に言及。
最近、感動ブームで泣こうと思って映画を見るバカがいる。映画にはいろんな種類があって当たり前。
ここんとこ病気みたいに、感動します、泣けますって、そういうバカみたいな映画ばっかり・・・と。

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